乳幼児保護施設が大変なことになっているようです。それを目の当たりにした人がなんでこんなことになってしまうんだろうかと言うに言えない気持になったそうです。
僕は、それを見て思ったことをそのまま書きます。道徳的にふざけた内容になるかもしれませんがふざけた内容になってしまうのもこの問題と同じところに根があるのでそのまま書いてしまいます。では、本題。
この目の前の状況をなぜと言った人は、多分子ども達のことを思って、やるせなさにまいってしまっています。こんなに小さいのに親から離れなければいけないとはどういうことなんだと。だけど本当の問題は、こういう施設が実際ある、もっと言えば建てなければいけない理由があると思うのです。その理由が捨て子が存在するということや子ども達を救うといううそのない気持ちが由来であることに間違いはないですがそれ以上に、そうでなければおかしいということが理由だと思います。正常を保つ、保証する。どういうことかというとそこのベッドで子どもが大勢で泣いているのは、そのベッドがあるからで無ければそこで子どもが泣くことはないということです。本当は異常なほどシステマティックな流れの中のことなのです。
そんな光景は、ここが無ければ見ずにすんだということ。それを想像すると別の風景が頭によぎりはしますが、それもやはりぼくらがこうでなければおかしいという立ち位置で考えているからで、この数行に常に流れる背徳もやっぱりそうなのです。僕は、反逆者ではないし、子どもは救われて当然と思っています。ただことの成行き、善悪がただ善という名前で、悪という名前でしかないところから見渡すとこういうことなんではないでしょうか。といいたいわけです。すべてのことは、人間のするすべてのことは、人間の意志に由来してはいますが、動き出したらほとんど人間の意志ではどうにもならない別の意志のようなものが出来てしまうようです。
何かを選んだときに何かを捨てているというと何か運命論のように聞こえますが、個々人の話ではなく、大きな囲みを語るとき、それは、運命でもなんでもなく実際に切り捨てているのです。①親が子を手放す②保護される(保護施設ができる)という流れは、①保護される(保護施設ができる)②親が子を手放すとも言えるのです。
これに関連して。こうなると本当は、ホームレスの存在は、許してはいけないということになります。日本には家の無い人なんてひとりもいません。と。もしそんなのがいたとすれば、それは犬か何かです。と。だけど実際います。そんなことは、幼稚園の子どもでも知ってます。
家を無くしたものには、手をかしはしませんが、家を無くしそうな人(契約社員問題のときなど)の場合には、仮の家まで提供します。ぎりぎりでもシステムとして正常であれば、それが崩れないように補正します。
同じやるせなが胸にはあるのに建つものと建たないものがあります。なぜなら感情で動いてはないからです。100人の声が届いて行政が動いたのは、システム内のことだからで、システム外のことであれば、3万人の声も「うるさい」の一言でかき消されるのです。